広島蒲鉾組合のあゆみと広島の蒲鉾の歴史
明治40年(1907)の「草津蒲鉾組合」創設が、現在の「広島蒲鉾組合」の歴史の始まりです。以下にその歴史と主な出来事の概略を掲載しております。いまだ未完成ですので、修正点やここに掲載されていないトピックなどご存知の方がおられましたら、twitterなどでお知らせ下さい
1818年(文政1)年頃
草津浦は牡蠣の生産地であり大阪などのかき船で料理を出していたが、魚肉に塩を加えてねって団子状にし、煮たり焼いたりしたものも提供していた。その技術を活かし、草津港の魚問屋から仕入れた魚に塩を加えてねり、経木に盛り炭火で焼いた「おれんかまぼこ」を市場で販売したのが草津蒲鉾の始まりとされる
1887(明治20)年頃
蒲鉾づくりを生業とする業者が現れる。大正初期に氷が作れるようになると遠洋漁業などの原料魚を大量に入手できるようになり、蒲鉾専門業者も増加
1907(明治40)年
組合員相互の親睦、魚問屋との交渉などを目的に「草津蒲鉾組合」結成。主要発起人は三島倉吉、吉本文右エ門、高橋儀三郎など。組合員約35名。初代組合長は三島倉吉、役員は吉本文右衛門、高橋儀三郎、播本亀太郎、亀岡浅吉、太田定吉、岩井順一、吉和喜エ門、和田辰五郎、山口常吉、石田常助、松岡仁三郎、加藤市次郎
1916(大正5)年
音堂金五氏がアメリカから手動ミンチ機を持ち帰る。蒲鉾業者の岩本氏が魚肉のスジ抜きに使用し、蒲鉾の製造方法を改良した
1917(大正6)年頃
足踏み式スクリュー型擂潰機、電動の擂潰機・粉砕器が登場。生産効率が上がる。この頃、板付き蒲鉾100匁(375g)が約10銭(kgあたり27銭)
参考:足柄下郡(現在の小田原市近辺)の大正6年の蒲鉾生産は4万3000貫(約161t)で10万7500円。kgあたり約67銭
1929年(昭和4)年11月
草津南町に草津魚市場が完成。昭和5年頃の草津魚市場の市場金取扱高の6割は蒲鉾業者が占めた
この頃、広島水産試験場を通じ福岡の久留米市蒲鉾組合より申し出があり、広島の岩井順一、三島倉吉が久留米を訪問し技術交流を行った
この頃、組合長が網崎音五郎から太田定次郎へ。組合内で先進都市視察の必要性が議論され、吉川万次郎、木野金蔵、山本久吉らを明石、尼崎、大阪、京都、名古屋、熱田に派遣する
太田定次郎が組合長を半期勤めた後、岩井順一が組合長に
1933(昭和8)年頃
不況の度合い深まる。原料高製品安の中、組合員85名のうちにも多くの倒産者を出す
1937(昭和12)年
日中戦争勃発。物資不足・値上がりが深刻化
この頃(昭和13年?)、元広島市役所水産課勤務で旧県会議員の森沢雄三氏の斡旋で「広島県水産煉製品協同組合」を結成。草津地区からは組合長岩井順一以下60名、広島地区組合長工藤氏以下35名、呉地区組合長森沢賢一氏以下25名、福山地区羽原氏以下20名、鞆地区倉本氏以下15名、尾道市村上氏以下約10名、合計約165名。役員として草津地区からは岩井順一、吉本万次郎、木野金蔵が選出された
戦争は長期化。原料や副資材は軍の統制下に。公定価格で組合あてに配給され、組合は協議をして各業者に割当てた
1941(昭和16)年12月8日
太平洋戦争開戦。開戦後、統制が強化される。この頃、草津魚市場、中ノ棚市場、宇品市場は千田町魚市場(大手町九丁目の市場?)に統合されていく。蒲鉾の原料魚は千田町魚市場から引き取ることに
1942(昭和17)年8月頃?
組合(草津?)は総会を開き、役員はいったん退陣し新役員を選出。新組合長木野金蔵、副組合長船岡小太郎、会計舩本亀夫、役員石本龍俊、小西要次郎、加藤福一、播本啓次郎、山本久吉、大崎福一、繩本清吉、亀岡茂
企業合同の方針を立て整備資金を集める。転業希望者も募り、9名が転業。組合員は45名に減少
1942(昭和17)年9月1日
組合は既設6工場(森重、亀平、小末、石本、浜伝、岩順)を利用して生産開始。事務所は旧魚市場の三島市の事務所を借りる。余った魚肉でてんぷらを作り販売するが、経済統制にかかり県警より注意を受ける
1943(昭和18)年
旧市内の蒲鉾業者で組織された旧広島蒲鉾組合が企業合同。旧広島蒲鉾組合の組合員は工藤組合長以下25名、副組合長は白石氏。企業合同は白石氏によって行われ、同氏が代表に就任。旧天満町の川沿いの工場で共同作業。旧広島蒲鉾組合は、原料魚を千田町魚市場から仕入れていた
1943(昭和18)年10月頃
草津の新工場が完成し竣工式を行い操業を開始する。魚市場の統合後に遊休設備となっていた元の草津の魚市場を魚市場理事長三島淳三氏と交渉し17万円で買収。当局に日参し許可をとり蒲鉾工場へと改装。組合員が有償で機械を供出する形とし、新たに各自が5000円を出資した
しかし新工場で操業開始するも、組合単位で徴用がかかり4、5名を山口県宇部・長崎県初島の炭坑などに送り出し、また40歳までの男子には軍招集がかかるようになり、組合は老人と女ばかりになった。また原料の鮮魚を入手できない日もたびたびあったという
1944(昭和19)年頃?
蒲鉾業界の全国組織である全蒲へ参加。昭和15年10月、政府が物価統制令を出しそれに対応する形で同年12月9日に「全国蒲鉾組合連合会」(全蒲)が結成されていた。全蒲は全国の蒲鉾業者の交流と団結を生み、現在も精力的な活動が続いている
1945(昭和20)年8月6日
午前8時15分原子爆弾投下。蒲鉾工場(*)も被害。作業は休止し、被爆者救護のため応急薬として食用油を、食料として製造中だった団子を提供
(*)『郷土伝説軍津浦輪物語(改訂版)』には「爆心地から約七粁(キロメートル)」という記述があるので草津の工場と思われる。屋根の二分厚のガラスが吹き飛び、屋根のスレートは波状になり、トタンの付属建物二棟が全壊したという。白石氏らが原爆で亡くなった
1945(昭和20)年10月
8月6日の原爆で壊滅した大手町九丁目の市場に入っていた草津の魚商が、広島蒲鉾組合から建物の北半分を無料で借りる形で草津に移り、「広島水産中央市場」が開設される。戦時中の統制により草津魚市場は大手町に移転していたが、1943年に移転する際、土地建物を広島蒲鉾組合に売却していた
戦後、蒲鉾の原料魚・資材は不足。組合長の木野金蔵は市場関係者と共に、戸畑・長崎・下関・福岡などを入荷の懇請に回った
統制解除後は蒲工から脱退する業者も出て原料購入などのため個別に組合を結成していた。平和(山下・小林)、協水(繩本・安田・音堂)、明治(三島・川本・音堂)、日進(和田・大崎・森重)、第二次昭和(船万)など
1948(昭和23)年9月1日
草津南に新設された「広島中央魚市場」へ荷受・仲買が移転。蒲工隣接地を借りていたが、将来性を考え建設を決定。蒲鉾業者も参加し共同出資での新設だった
1949(昭和24)年
配給・価格統制解除。戦時下の物資不足などに対応するため作られていた広島県蒲鉾協同組合(1937年結成の「広島県水産煉製品協同組合」?)は自然解消
広島市地区では「広島蒲鉾組合連合会」を結成。理事長木野金蔵、副理事長播本啓次郎(1953年のことかも?)
1950(昭和25)年頃
市場開発のため組合から東京、京阪神地方へ視察、売込員を派遣。広島市当局の協力も得て東京市場で仲買人を招待して売込み。希望者による共同出荷組合を作り共同出荷を行う
個人有志は、小田原、焼津、戸畑、下関、吉見、柳川、福岡、長崎方面などを視察。組合では広島市役所と協力し、福岡、柳川、舞鶴、金沢、富山、新潟地方などの販路、生産、原料魚の実態など実態調査
1951(昭和26)年頃
組合員のアイデアにより開発された珍味蒲鉾(大崎水産、山下水産あたりの製品か)が全国的に売り出される
魚肉ソーセージなどに対抗する技術力をつけるため、京都大学教授清水氏を招き講習会を開催。また広島大学で水産学会が開催され全国の農学博士が集まったのを機会に、6博士を草津に招き講習会を開催
1953(昭和28)年
蒲鉾製造業から漁屋に2名が転業
1953(昭和28)年
「広島蒲鉾組合」誕生。構成人員80名。内外の諸問題に対処していく中、組合単一化の必要を痛感。小組合を発展的に解消しての大同団結だった
1954(昭和29)年1月
比治山町に広島県食品工業試験場の本場が新築される。煉り製品など各種食品の研究課があり、広島蒲鉾組合は協会に加入。工業試験場と協力し技術の研鑽に励んだ
1958(昭和33)年頃
蒲鉾組合役員の任期を2年から1年に変更
1965(昭和40)年3月
この年発行の『郷土伝説軍津浦輪物語』の広告によると、広島蒲鉾組合員79名(西条・岩国の3名含む)。組合長は木野金蔵(木市商店)
1965(昭和40)年4月
広島信用金庫会議室において北海道冷凍魚肉研究会と全国蒲鉾協同組合連合会を招き、冷凍スリミ利用講習会開催
1965(昭和40)年7月
広島地区、呉地区、福山地区の各地区の蒲鉾組合員が福山市に集まり「広島蒲鉾組合連合会」を創設。連合会長には広島地区の木野金蔵が就任
1972(昭和47)年頃
広島市西部開発団地企業用地への蒲鉾製造業者の進出を見すえ市当局と交渉を重ねる
1976(昭和51)年11月12〜15日
「第29回全国蒲鉾品評会」を広島県立産業会館にて開催。高松宮殿下も台臨。出品件数2450点、一般来場者は約22,000名、全国業者延べ1,200名を数えた。グランドホテルで開催された表彰式、業者大会には352名が出席した
1977年(昭和52)年
蒲鉾原料のすり身価格が2.5倍に跳ね上がるなどした「200海里ショック」の影響もあり、広島蒲鉾組合加盟58名のうち、6社が廃業又は操業休止
1977年(昭和52)年
蒲鉾まつりを福山天満屋にて開催
1977年(昭和52)年
広島蒲鉾組合青年部「新振会」の第1回総会開催。若手を中心として交流、研鑽、販促などの活動を担う
1980(昭和55年)3月
この年発行の『郷土伝説軍津浦輪物語(改訂版)西都廣島の郷土史』の広告によると、広島蒲鉾組合員53名。組合長は木野金蔵(木市商店)
1986年(昭和61)年
広島蒲鉾組合青年部「新振会」の第10回総会開催
1996年(平成8)年6月11日
広島蒲鉾組合青年部「新振会」の第20回総会開催
2006年(平成18)年6月17日
広島蒲鉾組合青年部「新振会」の第30回総会。新振会の活動30周年を記念しOBも招いて開催
2012年(平成24)年7月21日
広島蒲鉾協同組合総会において、出野保志(出野水産)が組合長に就任
広島蒲鉾組合青年部「新振会」の第36回総会において、高崎明彦(坂井屋)が会長に就任
参考文献:
『郷土伝説軍津浦輪物語』(広島郷土史研究会)
『郷土伝説軍津浦輪物語(改訂版)西都廣島の郷土史』(広島郷土史研究会)
『小田原蒲鉾のあゆみ』(本多康宏)
Webサイト ひろしまの風景